《Interview》株式会社 まるや八丁味噌 代表取締役 浅井信太郎さん
Wholefood Interview
株式会社 まるや八丁味噌 代表取締役
浅井信太郎さん
− 岡崎から世界へ。八丁味噌の伝統を未来へ繋ぐ −
| 浅井信太郎プロフィール |
1949年生まれ。1978年に同社に入社し、2004 年、現職に就任。ドイツへの留学経験から、オーガニックへの可能性を早くから見出し、有機大豆を使用した有機八丁味噌を発売。国内はもとより複数の海外の有機認証機関の認証を受け、海外20カ国で販売中。八丁味噌の伝統を未来へ繋いでいくために、常に新しい挑戦を模索している。海外では「MR.HATCHO」の愛称で通る。
株式会社 まるや八丁味噌
◯ 創業から684年、二夏二冬の伝統製法を守り続ける八丁味噌づくり
弊社の創業は延元二年 (1337年)、始祖・弥治右ェ門が現岡崎市八帖町にて醸造業を始めたと伝えられていますが、「八丁味噌」と呼ばれるようになったのは江戸時代からと言われています。
原料は大豆と塩のみ。添加物は一切使用しません。それを高さ約2メートル、直径約2メートルほどある巨大な杉桶に仕込み、その上に400〜500個、約3トンもの石を円錐状に積み上げ、二夏二冬(2年以上)寝かせるという伝統製法を頑なに守り続けています。一般的な味噌に比べると、時間がかかっているんですよ。水分含有量が少なく、独特の濃厚な風味と酸味があるのが特徴です。
弊社には「家訓」といったものは残っていませんが、3つの信念があります。
(1)質素にして倹約を第一とする
(2)事業の拡大を望まず継続を優先する
(3)顧客、 従業員との縁と出会いを尊ぶ
伝統の製法を守りながらも積極的に新しい挑戦をしていかないといけない中で、特に私が入社当時から、社内の反対にあいながらも力を入れてきたのが「有機」。
1980年代、まだ有機という言葉が一般的に認知されておらず、他の企業が目をつけていませんでしたが、弊社では有機栽培の大豆を使った八丁味噌を造り、国内ではなく、オーガニックの関心が高まっていた海外へ全て輸出していました。
1987年、アメリカ有機食品認定機関 OCIAの認証を取得。ヨーロッパ有機認証機関 (ECOCERT)、厳しい食品規律を持つユダヤ教のコーシャ(Kosher)の認証も受けています。その監査も海外からやってくるので大変でしたが、その継続の甲斐あって、日本で有機JASの制度ができた時には、すでに弊社には多くの実績があったんです。現在でも毎年相当量の輸出をしているんですよ。
◯ ドイツでの「有機」との出会い。そして、八丁味噌を世界20カ国で販売
24歳の時、ドイツに留学したのですが、その時現地で出会った人達の影響が大きいですね。就職してサラリーマンになり、日々同じ生活の繰り返しでいいのだろうかという、日本で生活することへの閉塞感、世界を見てみたいという欲求に駆られ、憧れであったドイツの地を踏むことに。それを認めてくれた環境、両親には感謝しなければいけませんね。
当時は固定レート、1ドル=360円の時代。物価が高くて生活は苦しかったですが、ドイツの人達の生活も、決して派手なものを好まず、質素倹約、冷静沈着といったイメージだったのがとても印象的でした。高度経済成長期を迎えていた日本と違い、実に淡々とした暮らしぶりだったのです。そして10年後20年後に訪れてみてもほとんど変わらない風景がありました。この普遍的で質素なドイツ のスタイルは、私が会社の中で生かしていこうと目標にしているもの。どんどん新製品を作るのではなく、今あるものを生かす、という考え方もそうですね。
有機との出会いは、現地で日本食を普及していこうとしていた人達や、医学を志してドイツに渡り、マクロビオティック(※1)を研究していた人にお会いしたことが きっかけでした。特にアカデミックな人ほど、日本食やオーガニックの素晴らしさを認める人が多く、彼らが真剣に討論している姿や、その内容に大変共感を得たのです。今後、日本でも有機栽培やマクロビオティックが注目される時代がきっと来る、そう確信しましたね。
1914年の新聞記事には「赤道を超え航行中腐食せず、ブラジルの酷暑にも味が変わることが無かった」と記載されています。1968年には本格的にアメリカへの輸出を始め、翌年にはヨーロッパへも。私が入社する以前ですが、実際に北欧でまるやの味噌が売られているのを見たこともありました。 現在では世界20カ国で販売しています。ニューヨークでは在留の日本人をターゲットとすることもありますが、 基本的には現地の方に買っていただくことを狙いとしています。八丁味噌のこだわりを理解してくれる方、健康に気を遣う方、「日本の伝統」として認めていただける方に買っていただけるよう努力しています。
一般的に、「海外進出」というと現地に工場を作ったりするものですが、弊社では有り得ないこと。岡崎城から八丁離れたこの味噌蔵、この杉桶で造るからこその八丁味噌。事業の拡大よりも継続していくことが優先なんです。
毎年2月は単身渡米し、極寒のニューヨークで自分で作った味噌汁をポットに入れ、レストランに八丁味噌を提案するため渡り歩く、ということもしているんですよ。2月は観光客が少ないので、シェフも話を聞いてくれるんです。特に味噌汁にしてほしい訳ではなく、イタリアンやフレンチのシェフのセンスで、八丁味噌を素材と して、どう生かしてくれるのか。そこに期待しているんですね。ちなみに私は、海外では「MR HATCHO」の名で通っているんですよ(笑)。
◯三河地方、岡崎の地場産業としての活動を通して、食を大切に
タカコナカムラ先生とは、長きに渡り、各種展示会や勉強会で度々お会いする機会がありました。ホールフードに取り組む姿勢やその表情に真剣さが深く伝わる出会いでした。その後は「三河醸しツアー」の企画があります。
初回は全国から参加者が名古屋駅に集合、ここからのスケジュールのち密さに敬服し、視察される参加者の興味津々な姿勢に感動。これはタカコナカムラ先生と囲む方々との勢いそのものでした。印象的でした。以後何回ご来訪いただいたんでしょうか?訪問される蔵元の私も回を重ねるごとに工夫を加え、記憶に残る訪問にしようとチエをしぼりました。今後も「食を大切にする」タカコナカムラ先生との出会いをさらに高められる一人でありたいと思っています。
2007年、三河産大豆と奥三河の天然水で仕込む「三河プロジェクト」を始めました。大豆は西尾のマルミファームの協力で生産された大粒一等大豆、フクユタカを使用。実はこの大豆を生産している杉浦さんは私の学友なんですよ。そして、水には岡崎の保久町でこだわりの地酒を造っている柴田酒造場の柴田社長の出会いから、 硬度3の超軟水である井戸水(神水・かんずい)を提供してくださっています。人と人との出会いによって生まれたプロジェクトなんですよ。
そして「サムライ日本プロジェクト」では、三河国の武士として、三河を代表する各業種のメーカーさん達と、横の繋がりを持たせていただき、大変刺激になっています。パッケージにサムロックキャラクターを載せていますが、漫画を載せたのは600年の歴史の中でも初めてでしたね。おかげさまで新しい市場、チャンネルに商品を発信するきっかけができました。
八丁味噌というと名古屋を連想されることも多いですが、地元に感謝し、岡崎の地場産業として、今後も地元をテーマにした活動にも力を入れていきたいですね。
◯常に新しいことにチャレンジ。伝統を守るため、攻め続けていく
100年間で8%以上の企業、そして伝統や文化は、何もしなければ、淘汰されてしまうと言われます。それは100年の中で、例えば戦争があったり、赤味噌しかなかった地域に白味噌が流通してきたり、和食だった朝食に洋食文化が流入してきたり、と状況を激変させるような出来事が起こるから。その中で生き残っていく企業というのは、内にも外にも常に、新しいことにチャレンジしている企業。伝統企業ということに胡坐をかいていては、 あっという間に築き上げてきた伝統が崩れてしまいます。
旧東海道を挟んで向かい合った「カクキュー」と 「まるや」の2社によって造られ、お互いが時に協調し、時に切磋琢磨しながらその品質を高めあう努力をしてきたので、長い歴史の中で生き残ってこられたのだと思います。
平成7年に「カクキュー」さんと「八丁味噌協同組合」を発足し、味噌の品質、伝統の維持、文化の発信をテーマに共同で活動を行っています。若い世代や全世界に八丁味噌を発信するため、今後も2社の繁栄を期待しています。
どんな老舗でも、一番働いているのは社長でなきゃいけません。そして、社員みんなが満足感と公平感を味わうことが大切で、そのための環境作りも私の仕事の一つです。今後は社員にも海外に行って、様々な経験を積み、やりがいを感じてもらえる、そんな環境を作っていきたいですね。
そして、伝統企業の一大テーマである事業承継。今現在の成功だけを見るのではなく、次の世代がうまくいくための環境を作り、企業としていい状態で継承するのが私 の義務ですね。伝統を守る、そのためには攻め続けることが必要。先代が脈々と築き上げてきた伝統を未来へ繋いでいくため、精進していきます。
※1 マクロビオティック:本来人間が持っている自然のバランスを取り戻すことを目的とした食事療法